如何お過ごしですか? 3回連続10cmです。
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ちょっとローカルで古い話で恐縮ですが1955年(昭和30年)の今日、紫雲丸と言う船が沈没しています。
今でこそ香川県と本州と瀬戸大橋で繋がれていますが、その瀬戸大橋(岡山県児島⇔香川県坂出)が開通したのは1988年(昭和63年)のこと。
当然それまでは香川県と本州は船で行き来していました。あるいは泳ぐかww
私が生まれる前のことなので実際にこの目でみたわけではないのですが、簡単にその紫雲丸の事故の概要などを書いてみました。
オチはありません。
紫雲丸とは。
紫雲丸(しうんまる)は、1947年(昭和22年)から1966年(昭和41年)まで日本国有鉄道の宇高航路に就航していた鉄道連絡船。宇高航路初の車載客船。
宇高航路とは岡山県玉野市の宇野港と香川県高松市の高松港の間で運航されていた航路。
紫雲丸沈没以前の事故。
この紫雲丸、1955年(昭和30年)に沈没したんですが、それまでに何と4回も事故ってたんです。
1回目の事故:1950年(昭和25年)3月25日
宇野港を出港た下り貨物1021便「鷲羽丸」と高松港を出港した上り貨物1020便「紫雲丸」が、直島と荒神島に挟まれた海域で衝突。鷲羽丸が紫雲丸の横に衝突する形で紫雲丸は横転しに沈没。乗組員72名の内、7名が死亡。その後紫雲丸は引き揚げられ、連絡船に復帰。
2回目の事故:1951年(昭和26年)8月
高松港内で「第二ゆす丸」と衝突。
3回目の事故:1952年(昭和27年)4月
4回目の事故:1952年(昭和27年)9月
昭和30年5月11日、5回目の事故。
1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、上り第8便で運航中同じ宇高連絡船・下り153便大型貨車運航船「第三宇高丸」と衝突して沈没。
修学旅行中の児童などを中心に死者168名を出した。
犠牲者の内訳は次のとおり。
・紫雲丸関係者 2人(船長他1人)
・一般乗客 58人
・修学旅行関係者 108人 〔児童生徒100人(男子19、女子81) 引率教員5人 関係者(父母)3人〕
=上記修学旅行関係者の内訳=
○愛媛県三芳町立庄内小学校(現:西条市立庄内小学校):30人(児童77人中29人、PTA会長1人)
○高知県高知市立南海中学校:28人(3年生117人中28人)
○広島県木江町立南小学校(現:大崎上島町立木江小学校):25人(6年生97人中22人、引率教員3人)
○島根県松江市立川津小学校:25人(6年生58人中21人、引率教員5人中2人、父母3人中2人)
事故後、そして瀬戸大橋。
この事故は前年に起きた洞爺丸事故と相まって国鉄に大きな教訓を与え、連絡船の船体構造の全面的な見直しが実施された。またこれに伴い、従来行われてきた連絡船による客車の航送が完全に中止されるとともに、上下航路の完全分離が実施された。
この紫雲丸事故および同年7月に三重県津市で発生した橋北中学校水難事件において数多くの児童・生徒が溺死する事態となったことから、文部省の指導などにより全国の小中学校に学校プールの設置が進められ、小中学校の体育科目で水泳が必修となった。
またこの事故の後、海上保安部による停船勧告基準が厳しくなり、宇高連絡船は一切人身事故を起こすことはなかった。しかし、初夏から梅雨にかけての濃霧でたびたび停船勧告が出されるようになったことが輸送上の障害となったため、瀬戸大橋の建設機運が高まることになった。これは、本州四国連絡橋の3計画ルートのうち、児島・坂出ルートが最初に建設されることにもつながっている。
この事故から33年経って瀬戸大橋が完成しています。
編集後記
この事故で小学校の修学旅行は本州ではなく四国島内(高知方面)になったと聞いたことがあります。
その後1970年の大阪万博の時に修学旅行が本州復活になったような記憶が。
1970年と言えば私が小学校5年の時。私より1個上の学年は修学旅行で万博に行きました。
私は次の年1971年に奈良・京都へ修学旅行に行きました。
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